この社会はミサンドリー(男性嫌悪)社会だ。男性であるというだけで、粗暴で、支配的で、加害性のある人物として周囲からレッテルを貼られる。犯罪学理論のひとつであるラベリング理論では、そのようなレッテルを貼る社会が犯罪者を作るとされる。近年よく報道される無差別殺傷事件の犯人もまた、ミサンドリー社会が生んでいるのではないか。この記事はその点を考察する。
レッテルによる刷り込み
男性として生きていると、人生の様々な場面で、男性であることだけを理由に様々なレッテルを貼られる。母親や、クラスの女子生徒や、同僚の女性から、または男性同士でも、「男だからこう」という多くのレッテルを貼られる。それらは次のようなものだ。
- 馬鹿だ
- 口数が少ない
- だらしない
- かわいくない
- 反応が鈍い
- 頑固だ
- 精神年齢が幼い
- 制御不能だ
- 察しが悪い
- 表現力が低い
- 物わかりが悪い
- 感情が乏しい
- 暴力的だ
- 交友関係が薄い
- 感受性が鈍い
- 汚い
- 聞き分けがない
- 不真面目だ
- 協調性がない
- 反抗的だ
- 捕食者だ
- ダサい
- 他人に頼らない
- 臭い
- 表情が乏しい
- むさ苦しい
- 言葉が通じない
- 間抜けだ
- 共感力が低い
- 雑だ
- エロい
- 図々しい
- 加害者性がある
- キモい
- 犯罪者予備軍だ
ラベリング理論[1]というものがある。ラベリング理論とは、ある人物の特性は社会から貼られるレッテルによって決まり、犯罪者を生んでいるのは特定の属性を持った人々を犯罪者扱いする社会のほうであるとする理論だ。ある人に貼られたレッテルのひとつひとつがその人のスティグマとなり、その積み重ねで犯罪者が作られていく。
男性であることは、それ自体が犯罪のようなものだ。粗暴で、精神性が幼く、何を考えているかわからず、言葉が通じず、醜く、頑固で、孤立し、鈍く、加害性があり犯罪性向のある人物として周囲からラベル付けされ、刷り込まれ、その期待に適う人物像が形成されていく。
犯罪者として扱われる日常
男性として生きていれば、日常的に犯罪者またはその予備軍として扱われる。日中の住宅地の公園で休んでいれば、そう時間をおくことなく、警らの巡査が職質のために現れる。巡査に理由を尋ねると、公園に不審者がいるとして通報した者がいるのだという。男性は公園にいるだけで不審者扱いだ。
職質に遭うのは日中の市街地でも同様だ。生活圏内にいるときと同じようなラフな服装で、少し大きめの膨らんだバッグを持って歩いていれば、新宿や渋谷や丸の内や秋葉原のような場所では、1時間に2回程度の頻度で警察官に囲まれ、職質に遭う。これも私だけの経験ではない。
電車に乗れば、男性であるというだけの理由で乗車できる車両を制限される。夜道を歩けば、先行して歩いている女性が警戒感もあらわに早足で遠ざかっていく。犯罪者扱いされる精神的苦痛を避けようとすれば、外出もままならなくなるのが男性だ。こうしてスティグマは強化されていく。
無差別殺傷事犯の作られ方
この社会に生きている男性は、犯罪者として繰り返しラベリングされ、犯罪者のように身を潜めて暮らすように条件付けられ、自分を憎むように訓練されている。その結果、自尊感情、つまり「自分はこの世に存在する価値がある」という感覚は毀損される。日々、無敵の人[2]に近づいていくのだ。
ある人がもし、男性という属性の他にもスティグマになりうる属性を持っていれば、無敵の人へと近づく歩みは加速する。たとえば、法務省法務総合研究所研究部報告50「無差別殺傷事犯に関する研究」によると、無差別殺傷事件の犯人には次のような特徴があるという。
- 男性である – 調査対象となった無差別殺傷事件の犯人52名のうち、女性は1名だけだった。
- 20代から40代である – 犯人の年齢層は一般殺人のそれよりも低く、50歳未満の者が87%を占める。
- 独り暮らしである – 単身で生活している者が多く、配偶者などと円満な家庭生活を送っている者は少ない。親などの家族との関係も希薄である者が多い。
- 異性の交際相手がいない – 犯行時に異性の交際相手がいる者はほとんどいない。過去に交際相手がいた者も犯行時には異性関係が消滅している。
- 友人がいない – 犯行時には友人がいなかったり、友人がいても交友関係が希薄または険悪である者が多い。
- 無職または非正規就労である – 犯行時には無職であったり、非正規雇用などの不安定な就労状況にある者がほとんどである。
- 自尊心が低く抑鬱傾向である – 自分に自信が持てず暗い気分が続いて自分自身で悩みやすい傾向や、いわゆる神経質な人にありがちなひがみっぽさや過敏さといった性格特性が高い。
- 自殺を企図したことがある – 犯行前に起こした問題行動としては自殺企図が多く、犯行時に近い時期に企図した者が多い。
上記の特徴は無差別殺傷事件の犯人のものだが、ひとつひとつは男性にとって珍しいものではない。そしてこれらの特徴は、男性が非難されたり、蔑まれたり、忌避されたりする要因としても珍しくない。周囲からこのようなレッテルを貼られ続ければ、次のような人物像(無差別殺傷事件の犯人像だ)が完成するのは自然なことと言える。
総じて、周囲との活発な人間関係がなく、社会的に孤立した中で、困窮型の生活を送っていた者が多いと言え、これらの生活状況が、無差別殺傷事犯者が抱いていた閉塞感、不満等の一つの要因となっていたと考えられる。
これは弱者男性そのものだ。社会にとって自分が有害な存在であると刷り込まれながら上記のような生活を送っていれば、希望や意欲を失い、自尊感情を失い、自分を無価値な存在であると認識するのは自然だ。投獄や自殺や死刑を望むようになれば、もう立派な無敵の人である。無敵の人には、次のような共同体道徳は通用しない。
- 自分が殺されたくないなら、同じ理由で他人を殺してはいけない。
- 自分の希望や未来を奪われたくないなら、他人のそれを奪ってはいけない。
- 逮捕され罰を受けたくないなら、その結果につながる行為をしてはいけない。
- 周囲や社会から孤立したくないなら、犯罪者になってはいけない。
自分の命の価値を軽くしか見積もれず、すでに孤立し、絶望し、希死念慮を持ち、社会に対して復讐心を燃やし、自暴自棄になっている人間にとっては、極刑ですら望ましいものになってしまう。極刑を望むような、または自死を企図しているような無敵の人が、無差別殺傷事件を起こすことを止める方法はない。
この種の人物が起こす事件が話題になるたびに、SNSなどでは「勝手に一人で死ね」とか「迷惑をかけずにひっそり死ね」のような意見があふれる。そのような意見の氾濫は、絶望した人物の社会への復讐心を煽る。自死するときには必ずたくさんの道連れを作る、と誓って生きる者が増え、無差別殺傷事件は連鎖していく。
この種の人物を生んだ責任は社会全体にある。冒頭で述べたラベリング理論に照らせば、有害で犯罪性向のある人物というレッテルを男性に貼り、スティグマを押しつけてきたのはこの社会であり、つまり無差別殺傷事件の犯人を作っているのはこの社会だからだ。また、同種の事件が起きるたびに「一人で死ね」などと煽ってきたのもこの社会だからだ。
ミサンドリー社会で生き延びる
現代の社会はミサンドリー(男性嫌悪)に満ちている。男性は、当の男性自身を含む誰からも嫌悪され、警戒され、劣った、有害な存在とみなされる。スティグマが積み上がっていく日々は、苦々しく、生きづらい。私自身も、ちょっとしたきっかけがあれば、無差別殺傷事件の犯人のようになってしまうのではないかという恐怖を持っていた。
しかし、この生きづらさを社会のせいにしても、自分の人生はまったく好転しない。そもそも社会は不公平で理不尽で偏見に満ちているのが現実だ。現実を受けいれ、その環境下で自分がどんな人生を選択するかが重要だ。私たちがやるべきことは、今日よりも明日が少しでもマシになるように、今日を生きることだけだ。
- 実際の自分の性質とは無関係に貼られたレッテルに罪悪感を覚える必要はない。そのレッテルとあなたは無関係だ。他人があなたのことをどう思おうとその人の勝手であり、貼られたレッテルに罪悪感を覚えることは無意味だ。
- 自分の人生の責任は自分自身だけにある。社会や他人はあなたの人生について責任を負うことはできない。社会がいくら不公平でも、あなたがいくら不遇でも、社会や他人がその責任を取ってくれることはないのが現実だ。
- あなたにあなたの都合や信条や行動指針があるのと同じように、他人にもそれぞれの都合や信条や行動指針がある。他人の思考や行動があなたに都合のいいように変わることはないのが現実だ。自分が変化し適応するしかない。
- 男性が社会の被害者として振る舞っても、共感も同情も援助も得られない。敗者として見捨てられるか、無視されるだけだ。その現実を受けいれたうえで、現実に合った希望や期待や目標を持ち、それを実現するだけだ。
- 自分の人生に重大な問題が発生したとき、それを解決できるのは自分だけだ。人生の問題を社会や他人のせいにしたところで、問題の解決にはまったく近づかないのが現実だ。解決に向けて自分が動かなければならない。
今でこそこんなふうに考えることができている私だが、以前は不平や不満を抱え、自らの不遇を嘆き、社会や他人に恨みを抱きながら、進歩のない人生をずいぶん長く過ごしていた。考え方を変え、そこから少しずつ人生が好転するまでは、自分がいつ無差別殺傷事件の犯人のようになるかもしれないとおびえていた。
アドラー心理学とMGTOW
私が現在のように考えを変えることができたのは、2014年頃にアドラー心理学に出会ったことがきっかけだ。アドラー心理学との出会いは、2013年に発売されベストセラーとなった岸見一郎・古賀史健「嫌われる勇気」だった。だがしかし、この本はアドラー心理学や目的論の考えかたを学ぶには適しているものの、人生を好転させるまでには至らなかった。
アドラー心理学や目的論の考えかたを人生にインストールし、人生を好転させることに成功したのは、その後に出会ったジェリー・ミンチントン「人生がうまくいくとっておきの考え方」[3]だった。この本にはアドラーのアの字も出てこないが、中身はアドラー心理学の実践書だ。軽いタイトルからは想像もできない良書である。
また、2017年頃にMGTOWの考え方に出会ったことも転機となった。社会の現実を理解する助けとなったことに加えて、その現状の中で自分がどう行動すべきかの指針を得た。この頃から私の人生は明確に好転した。人生における負債となっていた人間関係を切り捨て、自分のすべきことに打ち込めるようになったのだ。
いま現在、以前の私と同様に、このミサンドリー社会で生きづらさに苦しみ、閉塞感や絶望感に苛まれ、ふとしたことで犯罪者になってしまうのではないかとおびえている男性は多いことと思う。その気持ちはよくわかる。過去の私もそうだった。しかし、社会を恨んでも人生は好転しない。
私たちに必要なことは、自分の都合に合わせて社会の側が変わることを期待するのではなく、現実の社会(決して心地よいものではない)を受けいれ、その現実に合わせて行動することだ。そうすることで、自分の人生は少しずつマシなものになっていく。あなたの人生が好転することを、私は心から願っている。
脚注
↑1 | ラベリング理論は犯罪学の理論の一つ。ラベリング理論では、犯罪および犯罪者はノーマルな存在であり、むしろ社会によるラベリング(逸脱者としてのレッテル貼り)こそが犯罪を生み出すとする。ひとたび逸脱者のラベルが貼られると、その人物には逸脱者としての処遇が付きまとうことになり、逸脱行為は増幅されていき、犯罪者が作られる。このように、犯罪者を生んでいるのは特定の人々を犯罪者扱いする社会のほうであるとするところに特徴があり、犯罪学に大きな転換をもたらした。 ──ラベリング論とは – コトバンク |
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↑2 | 無敵の人とは、失うものを持たないために犯罪を躊躇しない人のことである。普通の人であれば、職や社会的信用を失うことを恐れて犯罪行為を躊躇する。しかし無業者や他者との社会的つながりが希薄であるなど、もともと社会的信用を持たない人にとっては、逮捕されることがリスクにならない。こうした人を無敵の人という。 |
↑3 | この「人生がうまくいくとっておきの考え方」は絶版なので、現時点では中古でしか入手できない。上記のリンク先はAmazonだが、運よく古本が在庫されているようなら、すぐさま入手することをおすすめする。社会への不公平感を抱えていたり、閉塞感や絶望感を抱えている人には本当におすすめだ。 |