道徳的優位性という幻想 – 優越の錯覚による独善的思考

道徳的優位性

道徳的優位性とは、自分や自分が属する集団が他よりも道徳的に優越しているという信念である。この信念は「優越の錯覚」と呼ばれる認知バイアスや、被害者意識、歪んだ特権意識によってもたらされる独善的思考であり、共感の欠如や道徳的排除などの人道上の問題を引き起こす。

概要

道徳的優位性(Moral superiority:道徳的優越感とも)とは、自分や自分が属する集団が他よりも道徳的に優越しているという信念である[1]。自らの道徳的優位性を主張する個人や集団は独善的[2]な思考を持ち、他に対して傲慢で軽蔑的、威圧的または攻撃的な態度をとる可能性がある[3]。道徳的優位の主張には次のような諸問題がある。

  • 非合理性 – 人には「優越の錯覚」と呼ばれる認知バイアス[4]があり、自らの道徳性を過大評価する。収監中の囚人ですらも自らを一般の人々よりも道徳的であると評価する[5]ほどで、道徳性についての自己認識は信頼に値しない。
  • 被害者意識 – 自らを被害者の立場に置くことで、自らの道徳的優位を確信する者がいる。自分が被害者なのは自分を取り巻くすべての人が非道徳的であるためだとする他方で、自分は無謬であって道徳的に優位であると信じるようになる[6]
  • 共感の欠如 – 自分の道徳性を過大評価する一方で他人の道徳性を過小評価することにより、他者への共感を失い、他者の意見や行動に不寛容になったり[7]、傲慢で軽蔑的、威圧的または攻撃的な態度をとる[8]
  • 特権意識 – 道徳的優位性は特権性の言い換えである。自分の道徳的優位を信じることは、自分は守られ、承認され、尊敬される特権を持つと信じることである。また同時に、敵対者を攻撃し、私刑にかけ、罰する特権を持つと信じることでもある。
  • 道徳的排除 – 自分たちの集団とその規範を他より優れたものとみなし、他の集団を道徳的に義務付けられた権利と保護に値しないものとして軽蔑し、疎外し、排除し、周縁化し、非人間化する[9]

現代の社会に蔓延している争いの多くは、家庭内から政治や宗教に至るまで、道徳的優位をめぐる争いだ。異なる正義を信じる個人や集団が、それぞれの道徳性や精神性の優位を主張し合う他方で、相手を劣ったものとみなして攻撃する。こうした道徳的優位をめぐる対立がエスカレートすれば、戦争やジェノサイドやテロを招く。

自分の道徳性は自分では判断できない。もし自任の裁判官の立場で自分に道徳的優位があると判ずるなら、それは単なる独善である[10]。言うまでもなく、独善は道徳ではなく悪徳だ。自らの道徳的優位性を主張する個人や集団は、道徳から最も遠い位置にいる。あなたも私も、自分で思っているほど道徳的ではない。以下の各項で確認しよう。

非合理性

自分自身が他の人よりも優れているとする判断には合理性がないことは、複数の研究によって明らかになっている。人は自らを過大評価し、他の人を過小評価する。これは社会心理学で「優越の錯覚[11]」(「レイク・ウォビゴン効果[12]」または「平均以上効果」とも)と呼ばれる認知バイアスだ。

「優越の錯覚」バイアスは極めて強力だ。サウサンプトン大学の社会心理学教授コンスタンティン・セディキデスが率いるチームは2013年に、イングランド南部の刑務所に収監されている79人の受刑者を対象に行った研究[13]で、人間は客観的な状況とは無関係に自分自身が優れていると判断することを明らかにした。

この研究では受刑者に対し、人格についての肯定的な9つの特徴(道徳的、他人に親切、信頼できる、正直、頼りになる、思いやりがある、寛大、自制心がある、法を遵守している)について、自分と「平均的な受刑者」および「平均的な一般人」という2者と比較したときの自分の位置を評価するよう求めた。その結果は次のようなものだった。

  • 受刑者たちは、すべての項目において平均的な受刑者よりも自分のほうが優れていると評価した。
  • 受刑者たちは「法を遵守している」という項目を除くすべての項目で、平均的な一般人よりも自分が優れていると評価した。なお「法を遵守している」についても、平均的な一般人と同じ程度に法を遵守していると評価した。

また、ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校のモラル・ビリーフ・ラボのベン・M・タッピンと、同校教授で同ラボ主任研究員のライアン・T・マッケイは「道徳的優位の幻想」という研究[14]において、道徳性と同様に「優越の錯覚」が起きやすい自主性や社交性よりも、人は自分の道徳性について合理性を欠いて過大評価することを明らかにした。

被害者意識

自分を被害者の立場に置くことは、道徳的優位性の一形態である。現代では被害者や弱者の立場は道徳的に優位であり、同情や注目や共感や親切を受け取ることができる一方で、責任と批判を避けることができる。認可専門カウンセラーのジェイミー・キャノンは、米サイコロジー・トゥデイ上で次のように述べている[15]

被害者意識の強い人は自分の道徳的優位性を信じるようになる。人生における困難は自分の責任ではないという確信が、短絡的な思考によって、周囲のすべての人は道徳的に間違っているという信念に変わるのだ。

ジェイミー・キャノン(米認可専門カウンセラー)

被害者意識がもたらす「自分は無謬の被害者であって道徳的に優位であり、周囲は加害者であって道徳的に劣位である」という誤った考えは、そうした考えを持つ者を弱体化させる。性とジェンダーの研究者でライターのベリンダ・ブラウンは、英コンサバティブ・ウーマンに寄せた投稿[16]で次のように述べている。

被害者意識は大きな道徳的優位性を与え、疑う余地なく同情される権利を与える一方で、自分の行動を正しく検証することを免除する。被害者は責任や非難を引き受けない。その結果、被害者意識を持つ者は弱体化する。なぜなら、損害をもたらした原因となる行動をそのまま続けてしまうからだ。

ベリンダ・ブラウン(性とジェンダーの研究者・ライター)

誰もが人生の中で何度も、不正や不公平、不誠実など多くの被害を経験するが、そのことと道徳性との間に関連はない。道徳性の高い者が被害に遭うという事実はないのだ。道徳性は個人の行動に表れ、その優劣は他者が評価するものだ。ある人の経験や境遇や属性はその人の道徳性を保証しないし、自分で自分の道徳性を高く評価することに意味はない。

共感の欠如

道徳的優位性を信じる者は、自分の道徳性を過大評価する一方で他人の道徳性を過小評価することにより、他者の痛みや苦しみへの共感を失う[17]。この結果、他者の意見や行動に不寛容になったり[18]、傲慢で軽蔑的、威圧的または攻撃的な態度をとったりする[19]。イギリスの心理学者ターニャ・バイロンは、英タイムズ誌上で次のように述べている[20]

道徳的優位に立つことで、人は他人を嘲笑い意地悪する無礼な人間になる。

ターニャ・バイロン(イギリスの心理学者でヨーク大学名誉博士)

被害者意識から自分の道徳的優位を信じるようになった個人は、自分自身の苦しみにだけ注目するため、他人の苦しみには関心を向けない。彼らは苦しんでいる他の人を無視するか、またはより利己的に行動する[21]。他人の立場に立って物事を考えることができなくなり、人を傷つけるような行動をとったり、その責任を認めないようになるのだ[22]

共感性が欠如するのは、個人だけでなく集団でも同様だ。自分たちの集団は道徳的に優越しているとする一方で、対立する側を不道徳で劣った排除すべき存在であるとみなし、対立する集団の苦しみに共感しない[23]。イギリスのノーベル賞作家であるドリス・レッシングは、インタビュー[24]で次のように語っている。

すべての政治運動は次のようなものだ ── 自分たちこそが正しく、他はすべて間違っているとする。意見の合わない者を異教徒とし、敵とみなしていく。それとともに、自分たちには絶対的な道徳的優位性があると確信していく。

ドリス・メイ・レッシング(イギリスのノーベル賞作家)

道徳的優位性を主張する者とは議論にならない。彼らは自分自身を美徳の模範だと考える一方で、他人の美徳には気付かない[25]ためだ。彼らは「善意と思いやりのある人はみんな私に同意する」といい、同意が得られなければ「あなたは邪悪だ」と言う。こうして公共の議論は破壊されていく[26]

特権意識

特権意識とは、自分には特別な扱いを受ける資格があるという信念だ[27]。ある種の人たちにとって、道徳的優位性または被害者意識は、特権性の言い換えである。自分の道徳的優位や被害者性を信じることは、自分は守られ、承認され、尊敬される特権を持つことを意味する。また、敵対者を攻撃し、私刑にかけ、罰する特権を持つことも意味する。

また特権意識は「自分はこの世界に対して貸しがあり、世界には自分に借りを返す義務があるという信念」と言い換えることもできる。実際には何も貸していないにも関わらず、世界に借りを返してもらうことを当然の権利だと感じ、それが公平だと信じている[28]のだ。ここで、旅人が歩いていて石につまずいて転んだところを想像してみよう。

  • ある旅人が石につまずいて転んだ。その旅人は、転んだ自分の不遇を嘆いて涙し、石に怒り、当然の権利のように他者に助けを求め、助けが得られないことに不平をこぼし、助けずに素通りしていく人々の不道徳を非難した。
  • 別の旅人が石につまずいて転んだ。その旅人は、転んでもすぐに立ちあがって服についた泥を払い、同じ道を次に歩く旅人のために石を取り除いたら、目的地に向かってまた黙々と歩きだした。

前者が特権意識を持つ人、後者が普通の人である。特権意識を持つ人の考えは子供の考えに似ている[29]。何か欲しい物がある子供は、親にはそれを買い与える義務があり、自分にはそれを対価の支払いなしに受け取る権利があると考える。しかし大人の世界は違う。単なる思い込みだけで望むものを手に入る特権は存在しない。

大人の世界で何かを得るためには、金銭や労力などの対価を支払う必要がある。特別な扱いを受けるためには特別な功績が必要だ。対価を支払うこともなく特別な功績もないのに、与えられ特別扱いされる特権は存在しない。子供のときから変わらず一方的に与えられ続けたまま大人になった人が、この種の不健全な特権意識を持ちやすい[30]

道徳的排除

道徳的排除(Moral exclusion)とは、ある集団の構成員が、自分たちの集団とその規範を他より優れたものとみなし、他の集団を道徳的に義務付けられた権利と保護に値しないものとして軽蔑し、疎外し、排除し、周縁化し、非人間化する集団心理のプロセスだ[31][32]。ホロコーストやアパルトヘイトはこの極端な例である。

自分が所属する集団の道徳的優位を信じる者は、その集団に属さない者や意見の合わない者を敵とみなす。対立する双方がそれぞれの正義を確信している場合、暴力がエスカレートする可能性が高く、解決は困難になる[33]。チャールストン大学の心理学教授シンディ・メイは、サイエンティフィック・アメリカン誌上で次のように述べている[34]

私たちは自分は他者よりも公正であり、信頼でき、道徳的であるという独善的な考え方は破壊的だ。なぜならこの考え方は、相互に協力する意欲を削ぎ、他者との間に距離を作り、さらには不寛容や暴力を誘発するものだからだ。道徳的優位性の感覚は、政治的不和や社会的紛争、さらにはテロリズムの原因となっている

シンディ・メイ(チャールストン大学 心理学教授)

道徳的な優劣が、人種、国籍、民族、肌の色、信仰、思想、性別などの属性によって決まるとする考え方は典型的な差別主義である。道徳性は個人の資質であり、集団には適用できない。もし道徳性を集団に適用すれば、それは差別である。

また道徳的疎外は普遍的なもので、その芽はあちこちにある。特定の人物を「バイ菌」などと呼んで非人間化し、集団で軽蔑し疎外するようなことは、学校内のいじめでもよく見られる。このように道徳的疎外は身近なところにも蔓延しており、それが戦争やホロコーストやアパルトヘイトまでつながっているのだ。

まとめ

道徳的優位性は錯覚に過ぎないが、誰もが持つ認知バイアスが引き起こすものであるため、誰であろうと無意識のうちに陥る可能性がある。ヴィーガン、環境保護主義者、フェミニストなどであって、それらの中でも特に急進的な思想を信奉しているような場合には、十分に注意する必要があるだろう。以下のことを頭に入れておこう。

  • 誰もが根拠なく、自分の道徳性を過大評価する。あなたが自分の道徳性を優位だと信じるなら、その信念は他の人の自己評価と衝突する。
  • あなたやその先祖やあなたの仲間が過去に何らかの被害に遭ったことと、あなた個人の道徳性の間には関連性がない。また、道徳性が高い者が被害に遭う事実はない。
  • 自分が道徳的に優れていると思い込めば、他者への共感を失い、他人を軽視する無礼な人間になる。そのような独善は敬遠され、人間関係は破壊される。
  • 願うものを無条件に手に入れられる特別な資格は存在しない。大人になれば、何かを手に入れるためには金銭や労力などの対価を自分で支払う必要がある。
  • 道徳性の優劣は、人種、国籍、民族、肌の色、信仰、思想、性別などの属性では決まらない。属性を理由に自らの道徳的優越を信じる者は差別主義者である。

自らの道徳的優位を信じる者の思考のうち、いくつかは危険な兆候になり得る。たとえば、被害者意識や共感の欠如は自己愛性人格障害(NPD)や境界性人格障害(BPD)の特徴と重なる。また、特権意識や道徳的排除はいじめっ子の特徴と重なる。こうした特徴を持つ者を避けることが、健全な精神性を保つための処方になる可能性もあるだろう。

よくある質問

道徳的優位性とは?

自分や、自分が属する集団が、他よりも道徳的に優越しているという信念である。この信念は「優越の錯覚」と呼ばれる認知バイアスや、被害者意識、歪んだ特権意識によってもたらされる。共感の欠如や道徳的排除などの人道上の問題を引き起こす。

道徳的排除とは?

道徳的排除とは、ある集団の構成員が、自分たちの集団とその規範を他より優れたものとみなし、他の集団を道徳的に義務付けられた権利と保護に値しないものとして軽蔑し、疎外し、排除し、周縁化し、非人間化する集団心理のプロセスである。