弱者のための正しい自己責任論 – 貧困を脱する当たり前の考え方

弱者のための自己責任論

弱者の切り捨てにつながる危険な自己責任論がまかり通る昨今だが、本来の自己責任とは「自分の選択とその結果に責任を持つ」という当たり前のものだ。貧困や障碍などの困難を抱えた弱者であっても、自分の選択に対する責任だけを担うことで、生きづらさや苦痛をやわらげ、人生を少しずつマシなものにすることができる。本稿では、健全で正しい自己責任の考え方を紹介するとともに、危険な自己責任論の何が悪いのか問題点を指摘する。

概要

弱者性を持った多くの人が「自己責任」という言葉に苦しめられている。生きづらさや困難を抱えていても「本人の努力不足であり甘えであって怠けているだけだ」のように、あらゆることを自己責任に帰される。そして困難を抱えた人自身もその考え方を内面化し、自分を責めながら、自罰的な日々を生きている危険な状況だ。

しかし、あらゆることを自己責任に帰するのは明確に誤りであり、不健全だ。自分で責任を負うことができるのは、自分で選択したことだけに限られる。病気や障碍や、生育環境や、生まれた時代や、性別や、持って生まれた能力は、あなたが自分で選んだものではない。あなたに責任があるのは、自分の主体的な選択とその結果だけだ。

何もかも背負い込むことはない。あなたが背負うべきものは、あなた自身の未来を現在より少しマシなものにする責任だけだ。今日よりも少しだけ楽な明日、今日よりも少しだけ幸せな明日を作ることだけが、あなたが自分に対して負っている責任だ。健全な自己責任を身につけることで、弱者の生きづらさも少しずつなら解消できる

自己責任とは

自己責任とは、自分の選択、自分の行動、およびその結果に責任を持つことをいう[1]自己責任の範囲は、自分の選択や行動とその結果に限られるのだ。個人が自分の自由意志で選択したことやその結果はその個人の責任だが、個人の自由意志で選択できない物事は自己責任の対象ではない。自己責任の本来の意味は次の通り[2]となっている。

  1. 自分の行動の責任は自分にあること
  2. 自分の過失についてだけ責任を負うこと

上記を言い換えれば、自己責任とは「自分自身に責任を持つ」というだけのことだ。自分の選択と行動およびその結果に対する責任はその当人だけにある。他人はあなたの選択や行動の責任を負うことはできないし、それと同様にあなたもまた他人の選択や行動に責任を負うことはできない

また、個人の自由意志で選択できない物事(詳しくは後述)は、その個人に割り振られた前提条件に過ぎない。それぞれの個人に割り振られた前提条件は人によってまちまちで、平等でも公平でもない。しかしすべての人は、自分に割り当てられた条件がどんなに不公平なものだったとしても、その条件のうえに人生を作っていくしかない。

自分の人生を作るのは、他の誰の責任でもなく、自分自身の責任だ[3]。あなたの人生の最終的な責任を、他人や社会が肩代わりすることはできない。自分の人生に対する最終的な責任は、自分自身だけにある[4]。私たちが持つべき自己責任の具体的な内容をまとめると次の通りとなる。

  1. 前提条件の受容 – 先天的または後天的に割り振られた属性や特性を、自分の人生の前提条件として諦念を持って受け容れ、そのうえで主体的に自分の人生を作り上げていく覚悟を持つ。
  2. 選択と行動 – 現在の自分の姿は、割り振られた前提条件のうえに過去の自分が選択と行動を積み上げた結果であることを理解し、これからの自分自身の選択と行動に責任を持つ。
  3. 結果責任を負う – 自分の選択と行動の結果を検証し、選択や行動が正しければ正当な利益を受け取り、誤っていれば代償を支払うとともに自分の責任で正しい方向へと軌道修正する。

過去の自分の選択の結果として、現在の自分がある。過去に自分が選択したことまたは選択しなかったこと、行動したことまたは行動しなかったことの結果が、現在の自分を作っている。もし現在の自分が好ましい状態にないのなら、自己責任を果たすときだ。過去の選択を見直し、新しい選択をするのだ。

その前に、自己責任の範囲を明確にする必要がある。先にも述べたとおり、自己責任の範囲は本来、自分の選択や行動とその結果に限られる。自分自身の意思とは無関係に割り振られた諸条件は自己責任の範囲外だ。それらは自己責任を担っていく以前の前提条件に過ぎない。次項ではこの点を確認する。

責任範囲の外にある物事

ある人にとっての自己責任の範囲は、その人の自由意志で選択できる範囲に限られる。自分では選択できない物事は、自分に割り振られた前提条件として、あるがままに受け容れるしかない。自分の意思で選択できないことで悩むのは時間と労力の無駄だ[5]。自分で選択できない物事には次のようなものがある。

  • 属性や特性 – 人種、民族、国籍、性別といった生まれつきの属性や、両親から遺伝的に引き継いだ外見や内面の特性、生まれつきの持病や障碍など。
  • 生育の環境 – 保護者の人格や健康状態、家庭の文化資本や経済資本の状況など、育った家庭の環境。
  • 時代の情勢 – 政治体制や政策、人口動態、景気動向など、生きている時代の社会情勢や経済情勢。
  • 不慮の不幸 – 後天的に自分や家族が負った傷病や障碍、事故や天災や犯罪被害など、自分や家族が不可抗力的に遭遇した不幸。

前提条件として割り振られる条件は人によってまちまちで、平等でも公平でも公正でもない。しかしスヌーピーも言っている[6]ように、人は「自分に配られたカードで勝負するしかない」のだ。配られるカードを選ぶことはできないが、その配られたカードに合わせて自分の人生を組み立てることはできる。

配られたカードで勝負するしかないのさ。それがどんな意味であれ。

私たちは天気を選ぶことはできないが、その日の天気に合う服装を選ぶことはできる。私たちがすべきことは、天気に悲しんだり改善を求めたりすることではなく、その日の天気に応じて服装を選択することだ。自分の人生において、何が天気で何が服装なのかを明確に切り分けることが、自己責任を引き受ける第一歩となる。

必要に応じて助けを求める

割り振られた前提条件が厳しすぎる場合、自分の力では自分の人生をコントロールできないことも起こりうる。障碍や持病があったり、孤立して泥沼のような困窮状態にいるような場合がそうだ。その場合には自ら動いて支援を求めよう。自分の状況を説明することも、必要な支援を要求することも、他の誰の責任でもなく自分自身の責任だ[7]

  • 支援のほうから手を差し伸べてくることはない。支援にアクセスするなら自分から行動を起こさなければならない。
  • 支援を受けることは簡単ではない。条件をよく調べることと、その条件に適合していることを自ら証明しなければならない。

受けられる支援を調べ、自分のニーズを明確にし、必要なら他者の手を借りて、支援にアクセスしよう。これも自分の人生をコントロールすることの一部だ。必要な支援を受け、その時その時で負うことのできる責任をきちんと果たしながら[8]、最終的な自立へと歩を進めていけばいい。

自力でできることは他者に頼るべきではないが、自分の力ではどうにもできないことで助けを求めるのはまったく正常なことだ。これは矛盾ではない。自分の人生を自分の力だけでコントロールすることは誰にとっても難しい。大きなハンデがあるならなおのことだ。自分の意思で他者に頼ることも含めて、できることからやっていくことが大切だ。

個人の幸福を追求する

幸福は個人が自分の責任で追求するものであって、他者や社会から与えられるものではない。なぜなら幸福とは「自分自身の独自の価値観にしたがって生きること」だからだ[9]。他人の価値観に従っている限り、個人としての幸福はない。自分がなりたい人になるためには、自分自身の手によって自分をそのような人に育てなければならない。

  • 幸福追求権[10] – すべての国民が個人として幸福を追求する権利。日本国憲法(第一三条)では、公共の福祉に反しない限り、最大の尊重を必要とするとしている。
  • 日本国憲法[11]第一三条 – すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

幸福追求権は個人の権利として私たちに保障されている。しかし権利は保有しているだけでは意味がない。私たちは個人として、幸福追求権を行使しなければならない。幸福追求権の行使とは、自分の目的を持ち、自分の考えを持ち、人生の苦痛を少しでも減らし、能力と時間をより多く活用し、人生を少しでも生き残る価値のあるものにすることだ。

幸福を得るには自己決定が欠かせない。独立行政法人経済産業研究所(RIETI)が2万人の日本人を対象に行った研究[12]によれば、幸福感を決定する要因として、健康、人間関係に次いで自己決定が強く影響し、それは収入よりも強い影響であるという。自分で人生の選択をすることで行動への動機付けが高まり、満足度と幸福感が向上するのだ。

自己責任を放棄した場合

自己責任を受け容れることなく生きれば、人はどうなるだろうか。自分自身の選択や行動に対する責任を放棄するなら、その責任を社会や他人に転嫁する他責的な人になる。しかし、自分の過ちを認めない人に進歩はない。自分の誤りを正すことで人は進歩するものだからだ。過ちを認めることは大人になるための第一歩だ[13]

解決できない難問の原因は他人にあると思い込むことができれば、責任を彼らに押しつけることができる。自己責任を放棄してしまえば、問題を解決する義務は他人にあると主張できる。それに対し、問題を作り出した責任の一端が自分にあることを認めてしまえば、自分が変わらなければならない。

「人生がうまくいくとっておきの考え方」ジェリー・ミンチントン p269

自分の選択を「他人のせいでそうせざるを得なかった」とし、その結果を「他人のせいでこうなった」とする他責思考は、私たちが陥りがちな罠だ。他責思考に浸れば自分の責任を他人に転嫁できたように思えて、肩の荷が下りたように感じるが、それは一時的なものにすぎない。あなたの人生の最終的な責任を負うことができる他人はいないからだ。

健全な自己責任

正しい自己責任とは、自分の不幸を他人のせいにしないことだ。または、逆境にあっても自分を幸福にできるということだ[14]。もしあなたの逆境が他人や環境のせいだったとしても、それを乗り越えるのはあなた自身だ[15]。自分の人生を作るのは自分自身の責任であり、それを他の人に担ってもらうことはできない。

人生はおのずと苦痛をもたらす。幸せになることは自分自身の責任だ。

ミルトン・エリクソン(アメリカの心理学者・精神科医)

人生は逆境や困難の連続であり、苦痛に満ちたものだ。人生の問題のすべてを完全に解決することは不可能だが、苦痛をやわらげたり、重大な問題を回避したりすることは可能だ。完全無欠の幸福を望めば失望は避けられないが、少しずつ自分の人生を幸福に近づけていくことなら確実にできる。それは自分自身の選択次第だ。

現在より幸福な未来は、現在の選択と行動の結果としてもたらされる。願うだけで行動しなければ結果は変わらない。未来の自分を少しでも幸福にするために、選択し、行動しなければならない。私たちは自分自身の人生を所有しており、行使できる自由意志と自己決定権がある。責任を持ってそれらを行使することが健全で正しい自己責任だ。

少しずつ課題を解決していく

私たちはそれほど多くの選択肢を持っていない。人生における選択をごく単純に言えば、お金と時間と労力をどう使うかの選択だ。お金も時間も労力も有限であるうえに、生きるためにどうしても必要になる部分を除いてしまうと、自由に使い途を決められる部分は少ない。しかもこれらは、意識して使わなければいつの間にか消えてしまう。

限られたお金や時間や労力を、人生の課題を少しでも解決するために使おう。人生の課題のほとんどは、健康とお金と人間関係の問題だ。これらの課題を放置していれば、人生の苦痛は増していく。一方で、自分の健康状態と、自分の経済状況と、自分の人間関係に責任を持ち、状況を少しずつでも改善することで、人生は少しずつ楽になっていく。

    • 自分の健康状態に責任を持つ – 悪いところがあるなら速やかに治療を開始するほか、健康的な生活習慣を心がけ、健康状態を改善したり健康を維持していく。
    • 自分の経済状況に責任を持つ – 昇給や転職や就業のための勉強をしたり、副業や投資や節約をしたりして、収入や資産をコントロールし、経済状況を改善していく。
    • 自分の人間関係に責任を持つ – 古くからの友人関係を温めたり、新たなコミュニティに飛び込んだり、害のある人間関係を断ち切って、人間関係を改善していく。

    大切なことは、これらを少しずつ改善していくことだ。完璧主義に陥って「どうせ無理だ」などと諦めてはいけない。少しずつなら必ず改善できる。また、世間と比較する必要もない。比較対象は常に自分自身だけだ。どこかの時点で振り返って過去の自分と現在の自分を比較し、少しでも改善しているなら合格とみなそう。

    リスクを取ってリターンを得る

    選択にはリスクをともなう。しかしそのリスクを自己責任で引き受けるからこそ、成功したときには利益を自分のものにできる。主体的に選択し行動する者だけが、その結果から正当な利益を得るのだ。選択にともなうリスクやコストを自己負担したうえで自由選択し、その結果から利益を得る[16]。次の3点は自己責任を構成する不可分の要素だ。

    1. 自由選択 – 自分の利益のために自分の責任で選択する。
    2. 自己負担 – 自分の選択と行動にともなうリスクやコストは自分で負担する。
    3. 自己利益 – 自分の選択と行動の結果として自分が利益を得る。

    リスクを取ることは挑戦であり、成功すれば利益が得られ、失敗したとしても教訓が得られる。選択を考えるときは誰でも、失敗に対する恐怖感や、周囲にどう見られるかという羞恥心や、利己的な判断に対する罪悪感を持つ。しかし、自分の人生に責任を負えるのは自分だけだ。自分の利益になる選択をすることを迷う必要はない。

    誤りを認めて軌道修正する

    私たち人間はみな不完全な存在だ。未来を見通す能力もない。私たちは選択を誤る。しかし誤ったならそれを認め、正すことができる。人生における選択で重要なことは、誤らないように選択そのものを避けることでもなく、誤りの結果を我慢して受け入れ耐え忍ぶことでもなく、素直に誤りを認めて軌道修正することだ。

    私は失敗を受け入れることはできる。誰もが何かに失敗するものだ。しかし私は、挑戦しないことを受け入れることはできない。

    マイケル・ジョーダン(アメリカの元バスケットボール選手・実業家)

    選択を誤ることは、私たちが生きていて学んでいることを示すものだ。選択を誤っても、それは新たな学習の機会を得ただけであって、何ら恥じることではない。恥じるべきは、誤りを認めず、責任を転嫁し、学習の機会を捨てることだ。どんなに愚かな選択をしても、選択の誤りを認めて結果責任を負うことで、人生を前進させることができる。

    • 誤)選択を避ける – 失敗を恐れて選択しなければ、目に見える選択ミスは避けられる。しかしそれでは状況の停滞を招くだけで人生の向上はなく、選択によるリターンを得ることもできない。
    • 誤)状況に耐える – 子供の頃であれば、我慢して良い子にしていれば親の手助けが得られたかもしれない。しかし大人になれば手助けしてくれる者は現れない。我慢して誤りに耐えていても状況は悪化する一方だ。
    • 正)軌道修正する – 誤ることを前提に自分の選択を厳しく検証し、誤りがあれば速やかに自分の責任で軌道修正すれば、深刻な結果を招くことを避けながら試行回数を増やし、より多くのリターンを得ることができる。

    「自分の選択の結果責任を負う」とは、自分の選択の誤りを認めて軌道修正することを指す。そして結果責任を負うことは健全な自尊心を育てる。選択を誤っても即時に軌道修正することを繰り返していれば「自分の問題は自分で解決できる」という自信が深まる。自信や自負心は自尊心を高める重要な鍵だ。そして自尊心は幸福感をもたらす。

    誤りを認めて軌道修正し状況を挽回する苦労は大きい。しかしその苦労を身をもって知れば、同じ失敗を繰り返さないように準備する動機が生まれる。また経験から得た知見によって状況判断やリスク評価の能力が高まり、人生の選択をより正確にこなせるようになっていく。転んでも何度も立ち上がることで、人は強くなっていくのだ。

    他者からの承認に依存しない

    ある人がどんな考えに基づいてどんな行動を選択するかは、その人の自由だ。すべての人はそれぞれの都合で動いている。他人があなたの常識や規範や考えや行動に不満を持ったとしても、それは不満を持った人の自由だ。勝手に不満を持たせておけばよく、あなたが他人の都合に合わせてやる義理はない。

    他人を喜ばせるためにあなたが嫌なことを引き受けたとしても、それで喜ぶかどうかは他人の勝手であり、あなたにはコントロールできない。他人に好かれるために、または嫌われないために、本意でない選択をしてはいけない。他人からの承認というコントロール不能なものに頼ることなく、自分自身にとって最善の選択をしなければならない。

    自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。

    「嫌われる勇気」岸見一郎・古賀史健 p147

    承認欲求から自分の意思を押さえてしまう人がいる。子供のときであれば「よく言うことを聞く素直ないい子」でいれば、大人が守ってくれただろう。しかし大人の世界では、自己主張せず他人の言いなりになっていれば、イエスマンや腰巾着、八方美人、風見鶏などと評価され、軽視されるだけだ。次のような選択をするべきではない。

    • 誤)相手や周囲に良く思われるため、または嫌われないために、自分が望んでいない選択をする。
    • 誤)衝突や議論を避けるため、または場の空気を乱さないために、不同意の意思表示を避ける。

    主張すべきことを主張するのも自分の責任だ。あなたの選択の結果はあなた自身に返ってくる。自分のためにならない選択、他人のための選択をすれば、自分の人生を後退させる結果が自分に返ってくる。他者からの承認はあなたの課題ではない。あなたが責任を持つべき課題は「自分の信じる最善の選択をすること」だけだ。

    人生の後悔を減らす

    あなたの人生はあなた自身のものであって、他人のためのものではない。それにもかかわらず、他人の顔色をうかがい、自分の意思を表明せず、自分のための選択をせずにいた場合、人々は死の床でどんな後悔をするだろうか? この点についての興味深い調査と考察がある。

    オーストラリアの看護師であるブロニー・ウェアは緩和ケアの現場での経験から、死を目前にした患者たちの後悔を彼女のブログ記事[17]にまとめた。このブログ記事は後に書籍化され、日本語版も販売されている[18]。死が目前に迫った人々の後悔は、多い順に次のようなものだった。

    1. 他人の期待に応えるのではなく自分に正直に生きればよかった – 人は死が目前に迫ってからやっと、自分が夢を叶えられなかった原因が自分自身の選択にあったことを知る。しかし健康を失ってからそれに気付いても、もう手遅れだ。
    2. 身を粉にするほど働きすぎなければよかった – すべての男性患者は、人生の多くの時間を仕事のために費やしたことを深く後悔した。より簡素な生活を選択していれば、仕事を減らして生活にゆとりを作れただろうと考えたのだ。
    3. 感情を抑え込まず、きちんと表現すればよかった – 多くの人は他者との衝突を避けるために感情を押さえ込み、その結果、自分が本来なりたかった人間になれなかったことを後悔した。きちんと本音を話したうえで、他者との健全な関係を築くべきだ。
    4. 友達と連絡をもっととればよかった – 最終的に人生は、お金や地位ではなく人間関係に帰着する。友情に対して、それにふさわしいだけの時間と労力を割かなかったことを深く後悔している人は多い。
    5. もっと自分の幸せを追求すればよかった – 幸せも人生も、自分自身で選択するものだ。あなたの人生はあなたが意識的に、賢く、正直に選ばなければならない。命があるうちに、きちんと幸せを選ぶのだ。

    回答者たちが後悔したのは、自分自身に正直でいなかったことや、自分の人生を大切にしなかったことなど、シンプルなことが中心だ。人は自分がしたことよりも、しなかったことのほうをより深く後悔する。自分のための選択をせずにいれば、後悔の中で死を迎える結果になるのだ。

    これは研究でも実証されており、コーネル大学心理学教授のトム・ギロビッチらによる研究[19]では、義務や責任を果たせなかったことよりも、希望や理想を実現できなかったことを後悔する人が多いことを明らかにした。この研究の参加者は人生で最大の後悔を1つ挙げるように求められ、76%が「理想を実現できなかったこと」と答えている。

    危険な自己責任論

    ここまで述べてきたように自己責任論は、自分自身の幸福を求めるときには有効だ。しかしこれを他者に向ければ「貧困は本人の努力不足が原因であり自己責任」のように、弱者を切り捨て、格差を肯定し分断を助長する論理となる。また政治家が国民に自己責任論を向ければ、弱者救済や格差是正などの政治の役割放棄であり、国民への責任転嫁となる。

    • 誤)貧困は本人の努力不足が原因であり、自己責任である。
    • 誤)虐めは虐められる側に原因があり、自己責任である。
    • 誤)性犯罪は被害者側に落ち度があり、自己責任である。

    上記のような自己責任論の使い方は、被害者の側に落ち度があったとする被害者非難[20](被害者叩き)だ。このように自己責任を自業自得と同じ意味[21]で使う誤用は2000年代初頭以降に一般化し[22]、社会に浸透している。次項からは、これらの無責任で危険な自己責任論の誤用について確認する。

    政治責任と弱者の切り捨て

    貧困や格差のような社会問題を個人の自己責任に帰してしまうことは、社会から個人への責任転嫁であり、社会問題の解決を目指す姿勢とは相容れない。社会問題の議論においては、自己責任論を丁寧に排しておく必要がある。社会問題はあくまでも、政策や制度の設計や運用といった社会システムの問題、構造の問題として議論すべきものだからだ。

    政治家が自己責任論を市民に押しつけることは、政治責任を回避する行為だ。また、市民が自己責任論で弱者を切り捨てることは、格差を肯定するとともに市民同士の分断を煽る行為だ。長年にわたってクレサラ問題や貧困問題の解決に尽力してきた弁護士の宇都宮健司氏は、著書「自己責任論の嘘[23]」の中で次のように述べている。

    政府関係者が貧困に陥って苦しんでいる国民や市民に対して「それはあなた方の努力が足りないからだ」「あなた方の責任だ」と批判することは、貧困を生み出さないようにする政策をとるべき自らの責任を棚上げする論理です。

    また国民や市民が、貧困に陥って苦しんでいる人に対して「それはあなた方の努力が足りないからだ」「あなた方の責任だ」と批判することは、貧困と格差を拡大させてきた政府の責任を問わないことになります。

    「自己責任論の嘘」宇都宮健児 p4-5

    宇都宮氏が述べているように、政治家が国民に自己責任論を押しつけることや、一般の市民が自己責任論で弱者を切り捨てることは誤りだ。他者に向けて上から目線で断罪したり切り捨てる意味で使うべきではない。あくまでも、社会問題は社会の問題として解決を図っていく必要がある。

    ただし、困難を抱えた当事者個人にとっては事情が異なる。困難を抱えた当事者がその困難を社会や他者のせいにしたところで、それだけでは困難な状況は何ら変化しないからだ。当事者が困難な状況を改善するには、当事者自身による主体的な動きはどうしても欠かせない。当事者個人としては健全な自己責任は身につける必要があるのだ。

    疑似宗教による誤った信念

    その人の生得的な特性や環境までを含めたあらゆることを自己責任とする誤った考えの源流は、19世紀後半に米国で発祥したニューソート(霊性運動)[24]や、1970年代に流行したニューエイジ(新霊性運動)[25]、そして、それらの流れをくんだ現在のスピリチュアリズム[26]などの疑似宗教にある[27]

    これらの疑似宗教は共通して「自分の意識を高め、思考のエネルギーを宇宙と同調させることで、運命や世界を変えられる」という誤った信念を持つ[28]。こうした考え方はポジティブ・シンキング[29]や引き寄せの法則[30]などの形で一般に浸透している。この考えの元では次の例のように「すべては自分が引き寄せた結果であり自己責任」となる[31]

    • 苦境にある人々の苦しみは、その人自身が意識を高めずに低次の存在にとどまっていることの結果である。
    • 災害や事故、犯罪や障碍などの不幸に遭遇したことは、その人自身の思考によって不幸を引き寄せた結果である。

    当然のことだが、苦境や不幸を自ら望む人はいない。望まずに陥った苦境までもを自己責任とする考え方は、被害者非難であると同時に弱者の切り捨てだ。疑似宗教を信奉して「目覚める」のは当人の自由だが、目覚めていない人を非難する姿勢は傲慢だ。他者を非難する手段として自己責任論を用いるべきではない。

    まとめ

    持って生まれた不利な特性や属性、後天的に持ってしまった病気や怪我や障碍、恵まれない生育環境などの不運は、自分で選択したものではなく、本人にはどうすることもできない。そうした事情を知らず想像力も欠如した他者は「貧困や困窮は努力不足であり甘え」などと断罪する。こうした声を真に受ければ、弱者の生きづらさは増してしまう。

    しかし他者からどう評価されようと気にする必要はない。他者がどう評価したとしても、自分の人生には何の影響もないからだ。自分の人生から少しでも苦痛を取り除き、生き残る価値のあるものにしていけるのは、ほかでもない自分自身だけだ。弱者性を持つ人こそ健全な自己責任を身につけ、自分自身の選択と行動に集中しよう。

    自分ではどうにもならないことは諦めて受け入れ、他者からの評価や承認を気にしないようにし、自分の利益になる選択と行動を繰り返していくことで、自分の人生を生きている実感が少しずつ得られてくる。できるところから始めよう。どのみち私たちは、死ぬまでは生きる。その人生を少しでもマシなものにするのが、私たちの自己責任だ。

    脚注

    脚注
    1Self-Responsibility – The Conover Company
    2自己責任(じこせきにん)の意味 – goo国語辞書
    312 Sensible Ways to Realize Self-Responsibility – Right Attitudes
    4, 8Personal responsibility as precondition for personal and social change | Independent Living Institute
    5, 27All About Responsibility | Nathaniel Branden
    6「スヌーピーのもっと気楽に (2) のんびりがいい (朝日文庫)」チャールズ・M・シュルツ
    7Your Rights and Responsibilities While Studying in the U.S. – MIUSA
    9The Pursuit of Happiness | Psychology Today
    10幸福追求権(こうふくついきゅうけん) – コトバンク
    11日本国憲法 | e-Gov法令検索
    12「幸福感と自己決定―日本における実証研究(改訂版)」西村和雄・八木匡(PDF)
    13Why People Refuse to Take Responsibility and How to Cope – Live Well with Sharon Martin
    14Taking Personal Responsibility for Your Happiness | Psychology Today
    15Your Happiness is Your Responsibility Alone | by Mathias Barra | Age of Awareness | Medium
    16自己責任論は、無責任社会の裏返し | 月刊基礎知識 from 現代用語の基礎知識
    17REGRETS OF THE DYING | Inspiration and Chai(Wayback Machineアーカイブ)
    18「死ぬ瞬間の5つの後悔」ブロニー・ウェア
    19The ideal road not taken: The self-discrepancies involved in people’s most enduring regrets – PubMed
    20被害者非難 – Wikipedia
    21『自己責任論者』だった私が、自分の傲慢さに気づいた時の話。 | Books & Apps
    22「社会福祉における自己責任と反・自己責任論の諸相」石川時子 2014(PDF)
    23「自己責任論の嘘」宇都宮健児
    24ニューソート – Wikipedia
    25, 28ニューエイジ – Wikipedia
    26心霊主義 – Wikipedia
    29積極思考 – Wikipedia
    30引き寄せの法則 – Wikipedia
    31「引き寄せ系自己啓発本」は、なぜ激しく賛否両論を巻き起こすのか? 「引き寄せ系」の歴史を振り返って見えたこと(尾崎 俊介) | 現代ビジネス