忘れられた男(The forgotten man)とは、アメリカにおける政治的な概念で、関心を持たれずに見過ごされる人々を意味する。彼らは労働し、生産し、税金を納め、自立しているが、権力を持たず、搾取され、顧みられることがない。この概念は1883年ウィリアム・グラハム・サムナーが主唱し、その134年後の2017年にドナルド・トランプ大統領が就任演説で用いたことで再び脚光を浴びた。サムナーの時代からおよそ140年が経った今も色褪せず、むしろ深刻化している問題である。
この記事の目次
概要
忘れられた男(The forgotten man)は「関心を持たれずに見過ごされる人々」を意味するアメリカにおける政治的な概念だ。米イェール大学の社会学教授ウィリアム・グラハム・サムナーが1883年にブルックリンで行った講演「忘れられた男」で、この概念を初めて主唱した[1]。この記事で紹介するのは、この講演の抄訳である。
この「忘れられた男」という言葉はその後、1932年にフランクリン・ルーズベルト大統領がサムナーの概念を改変し「国家が助けるべき経済的底辺の人々」の意味で使用した[2]。さらにその後、2017年1月20日にドナルド・トランプ大統領の就任演説で、サムナーが主唱した概念に回帰した形で使った[3]ことで再び話題となった。トランプ大統領は次のように述べた。
The forgotten men and women of our country will be forgotten no longer. Everyone is listening to you now.
この国の忘れられた人々は、もうこれ以上、忘れられることはありません。すべての人々が皆さんの声に耳を傾けます。ドナルド・トランプ大統領就任演説より
この記事で抄訳するサムナーの講演では、冒頭で人間の権力争いが描かれる。それは貴族と平民、資本家と労働者、といった階級闘争に始まり、近現代の「注目され、同情され、保護され、優遇され、与えられる者」と「顧みられることなく忘れられる者」との対立へと進む。トランプが注目したのはこの忘れられた人々だった。これは今もそこにある問題だ。
この抄訳では、講演ならではの冗長な部分を省いて半分ほどに短縮しているほか、可読性を向上するために見出しや強調などを施してある。これらの調整は、この記事の筆者(茂澄遙人)の独断による。抄訳に用いたオリジナルは米スワースモアー大学のサイト上で全文が公開されている[4]ので、より正確に詳しく内容を知りたい方はそちらを参照できる。
本文「忘れられた男」(抄訳)
ある事実またはある集団の利益が人々の関心を大きく集めているとき、他の事実や他の人々の利益は忘れられる。これは社会全体に見られる誤りであり、本稿で論じる主題である。以下に一般的な例を挙げる。
- 疫病の流行とありふれた災害 – 黄熱病のような疫病がどこかで発生するたびに、私たちの関心と同情はその場所に向けられる。寄付を求められれば、私たちはすぐに応じる。その一方で、各地で起きる洪水は黄熱病のような疫病よりもはるかに大きな被害を毎年もたらしている。しかし洪水は世界中で発生するありふれたものであるため、世間の注目を集めず、社会的な議論の対象にならない。
- 不景気時の破産者と日常の被害者 – 不景気になると破産者が増え、世間の関心を集める。社会哲学者が彼らの問題を論じ、議会は救済策を計画する。とはいえ破産者は、日常的な災難や事故による被害者よりもずっと少数に過ぎない。日常的な災難や事故の被害者は、孤独で、ばらばらで、組織化されておらず、 一般的でもないため、議論や救済の対象にならない。
私たちは世間からの関心を集める害悪に注目し、それに対する救済措置を提案する。Xが苦しんでいる状況を見たAは、Bと話し合い、AとBはXを助ける法律を提案する。だが、AとBが自分たちでXを助けるだけなら、法律がなくてもできる。つまりAとBが提案する法律はXのために「C」に何かをさせるものなのだ。私はこのCに注目する。
私はこのCを「忘れられた男」と呼んでいる。彼は誰からも顧みられない。彼は、改革者や社会思想家や博愛主義者たちの被害者だ。彼の人物像、彼が背負っている重荷は、注目に値する。
自由と法の支配
忘れられた男について見ていく前に、まずは「自由」の概念に注目したい。「忘れられた男」が求めるのは自由だけなのだ。真の自由があるところでは「忘れ去られた男」はもはや忘れ去られることはないからだ。
自由について考えるときはいつでも、2人の人間を念頭に置かなければならない。この2人のうち、一方が持つ権利の範囲は、もう一方が持つ権利の範囲に抵触する。どちらか一方が自由を確立すれば、もう一方を抑圧することになる。このことを頭に入れたうえで、話を先に進めよう。
人間の本性
人間の不変の本性は、愚かさ、利己主義、妬み、悪意、欲望、怨嗟である。これらは、特定の階級や、特定の国家や、特定の時代に限定されない。王宮にも、議会にも、学会にも、教会にも、作業場にも、掘っ立て小屋にも、その姿を現す。独裁国家、神権国家、貴族国家、民主主義国家、衆愚国家などにも同じように現れる。
権力争いとは、人生の重荷を自分の肩から他人の肩に移す権力をめぐる争いだ。誰かの喜びの裏には、必ず他の人の犠牲がある。軍事政権や貴族政権の悪弊は、特定の人間が他の人間の労働の成果を享受し、多くの人間の生命、権利、利益、幸福が、一部の他の人間の愚かさや欲望のために犠牲にされたことだ。
市民的な制度は、人間の本性である悪徳や情念から、人々の財産や名誉を守るために構築されてきた。この社会で生きるすべての人が社会に貢献し、働き、平和で、正直で、公正で、高潔であることによって、すべての人々の財産や名誉が守られる状態を理想とする。
法の支配
私たちの祖先は自由の実現のために、特定の階級による主観的恣意的な支配から、客観的合理的な法の支配へと移行させた。彼らは、あらゆる属人的で恣意的で階級的な支配を排除するとともに、人身保護制度、司法権の独立、政教分離、選挙制度、憲法の最高法規性などを導入し、合理的な法の支配によって人々の自由を保障しようとした。
自由が目的とするのは、人々がそれぞれ自分の考える幸福の実現に向かって、自分の美徳と知恵の範囲で、自分の人生を生き抜くことができるようにすることだ。真の自由は、権利と義務の均衡の中にあり、平和、秩序、調和を生み出す。こうして自由の概念は一歩進んだ。理想としての自由の定義は次のようなものだ。
自由とは、法と制度によって、個人が自らの幸福のために自らのあらゆる力を独占的に行使できることが保証されている状態である。
自由主義社会は、できるだけ客観的合理的に作用するように配置された一連の法律と制度で成り立っている。これらの法律や制度は、自由を確保する限りおいてのみ優れたものとなる。私たちは、自由と法の下の平等の体制のもとで、身分ではなく、自由契約に基づく社会の形態に至ったのである。
自由な契約に基づく社会では、人間は自由で独立した当事者として、相互に有利な契約を結ぶ。その関係は合理的なものであり、情緒的なものではない。契約は、慣行や好悪からではなく必要によって発生し、その必要がなくなれば消滅する。法の下の自由と平等の体制のもとでは、政治や経済に情緒の入り込む余地はない。
情緒は私生活や個人的な関係にだけあるものだ。情緒が公共の問題や公の議論に持ち込まれれば、必ず災いをもたらす。
情緒の犠牲になる人々
困窮者と弱者は、公共の福祉の対象とされる。困窮者とは、つまり生計を立てられない人、生活費を払えない人だ。弱者とは、犯罪や障碍によって能力を失った人だ。これらの困窮者と弱者への支援は、社会にとって避けることはできない。この人たちについて言うべきことはこれだけだ。
その他方で、上記の人々とは異なる弱者が、人道主義者や博愛主義者からの同情を集めている。これらの人々は、移り気な者、不注意な者、怠慢な者、非実用的な者、非効率的な者、あるいは怠け者、不摂生な者、贅沢な者、悪徳な者たちだ。人道主義者や博愛主義者は、主観的、恣意的、情緒的に、これらの人々に同情する。
社会に価値を提供しないこれらの人々は、あたかも彼らが特別な配慮に値するかのように、常に世間の注目を集めている。公共の福祉の大部分は、これらの社会に価値を提供しない人々を救済しようとする試みだ。そして、そのために使われる資金は、他の誰かから流用されることになる。
資金をあることに使えば、他のことには使えない。ある一斤を社会に価値を提供しない者に与えれば、その同じ一斤は労働者の手に渡ることはない。もし、慈善的な情緒によって社会に価値を提供しない者に一斤を与えてしまえば、別の者その同じ一斤を手に入れることはできない。この一斤を手に入れられなかった者が「忘れられた男」だ。
ところが博愛主義者や人道主義者は、彼らの同情を引く人々、様々な想像をかき立て、慈善的な感情を高ぶらせる、惨めで哀れな人々のことで頭をいっぱいにしている。彼らは自分が助けたい人々を救済することに邁進する一方で、真の犠牲者を忘れてしまう。
犠牲が生まれる場所
「忘れられた男」は、単純で正直な労働者であり、生産的な仕事で生計を立てている。彼は自立していて、自助できていて、頼みごとをしないので、私たちは彼に気付かず、その横を素通りしてしまう。彼は感情に訴えたり、扇動したりしない。彼はただ、敬意をもって契約を履行する。
悪質な者、怠け者、気ままな者のために浪費されている資金は、独立した生産的な労働者である「忘れられた男」から奪ったものだ。しかし私たちは常に「忘れられた男」から目を背けている。彼こそが最も留意されるべき人間だ。健全な社会理論に基づくのであれば、彼を重荷から保護しなければならない。
すべての人は働く義務を持っている。その義務をきちんと果たしている者が、義務を果たさない人々を世話する責任を負うのはおかしい。乞食は金持ちの犠牲になっているという愚かな通念があるが、真実は逆だ。労働して生産する者が、食べるだけで生産しない者の犠牲になっているのだ、様々な場所において。
処遇改善の場
労働者階級の処遇を改善するために多くの計画が立ちあがっている。しかし労働者が恩を受けたり庇護に甘えたりすれば、彼は自由を失う。自分に恩恵をもたらす者と対等でなくなり、結果として自らをおとしめることになる。自由民主主義であるこの国では、労働者階級のための提案はすべて、上から目線で恩着せがましい不適切なものだ。
労働者は自分の面倒を自分で見ることができる。他の誰かに面倒を見てもらう必要はない。自由主義国家の自由人である労働者にとって、恩顧や優遇は恥ずべきことであり、ふさわしくないことだ。ある労働者が恩恵を受ければ、他の誰かがそれに見合う抑圧を受ける。労働者階級の処遇を改善する計画のほとんどは、ある労働者に恩恵をもたらす一方で、他の労働者を犠牲にする。
恩恵を得る労働者と犠牲になる労働者の違いをもたらすのは、恣意的で偶発的な、個人的な好みだ。忘れられた男はここでも、犠牲となる側にいる。彼を思い出し、探しに行けば、不平も言わず、物乞いもせず、辛抱強く、忍耐強く、男らしく、自立して、逆境と闘っている彼の姿を見つけることができる。
公的支出の場
国家と自治体は、警察官や裁判官のために多大な経費をかけて、人々を自分自身の愚かさの結果から、つまり自分自身が引き起こす犯罪や無謀さによる身の破滅から守っている。その費用を負担しているのは、愚かさ、犯罪、無謀を犯していない人たちだ。何も生産せず、何も貯蓄しない人々からは税金を徴収できない。税金を支払うのは、生産し、貯蓄する人たちだ。
警察官は誰かから給料をもらっているが、私たちはそれを支払っているのが誰なのかを忘れてしまう。それはまたしても「忘れられた男」である。勤勉な労働者が一日の仕事を終えて帰宅するとき、その労働者は、警察官を雇うためにその日の収入の何パーセントかを徴収されている。
私たちが飲酒、浪費、賭博などで財産を失う人々のことを気にかけている間ずっと、税金という形で刑罰を受け続けているのはまたしても「忘れられた男」だ。彼らは、高潔で、寡黙で、徳が高く、家庭的な市民であり、自分の借金と税金を払っていて、注目されることのない人である。この社会には、この人よりも優先的に考慮されるべき人はいない。
社会的規制の場
自由な国家は、すべての人が政治的能力において平等であり、すべての人に等しく政治的権力が与えられていることを前提とする。人々は自分自身で契約を結ぶことで、自分自身を守らなければならない。しかし自らを守れない労働者は、彼らを守ってくれる社会的規制を必要とする。
国家による社会的規制があるとき、その費用を負担しているのは誰か。AとBが話し合って、自らを守れない労働者であるDのためにA、B、Cが何をすべきかを決める場合、AとBに負担はない。Dは負担を回避する。そしてすべての負担はCにかかる。
Cは「忘れられた男」だ。彼は自分の自由を合理的に利用し、濫用はしない。彼が社会的な問題になることはなく、どんな規制も必要としない。しかし、自らを守れないDのために、すべての負担を引き受けることになる。
更生支援の場
犯罪者とは、働く代わりに秩序を乱し、調和を破り、他人の安全と幸福を侵害し、浪費し、破壊する者である。犯罪を犯すことは社会に対する傷害であり、犯罪者は社会の重荷である。犯罪者は生産力ではなく破壊力であり、犯罪者の存在によって誰もが、犯罪者が存在しない場合よりも悪い影響を受ける。
この社会では、犯罪者を単に罰するだけでなく、更正させるべきだと考えられている。犯行は本人のせいだけではなく、社会のせいでもあると一般に考えられているためだ。しかし犯罪者の更生支援について議論するとき、我々はいつも、犯罪者の更生にかかる費用を支払う者のことを忘れている。
犯罪者に対して国家が行うことはすべて、懲罰や更生を必要としない勤勉な社会人の犠牲の上に成り立っている。しかし、犯罪者に対する同情と心配で頭がいっぱいになり、更生支援の充実を望む人々は、もう一度、忘れられた男を踏みにじっているのである。
あらゆる場
この社会のあらゆるところに、浪費と贅沢の扉が開いている。消費する、散財する、略奪する、横領する、が合言葉だ。政府はすべての人に職を与え、すべての人に税金を課す。すべての物に課税して価格を上げ、借金させ、それを返すための通貨を供給する。すべての人に年金を与え、子供を教育し、公園や図書館や博物館や美術館を利用させる。
互いに消費し略奪しあうシステムはやがて、すべてのものを破壊してしまう。消費や略奪は何も生み出さない。富は生産からしか生まれない。強盗や怠け者、政商が取引するものはすべて、誰かの労苦と犠牲から生まれるのだ。誰がその費用を負担するのか?その費用を提供する人を探せば、また「忘れられた男」にたどり着く。彼は多くの人を養うために懸命に働いている。
忘れられる理由
忘れ去られた男は、辛抱強く働き、家族を養い、税金を払い、投票し、教会や学校を支え、新聞を読み、敬愛する政治家を応援しているが、彼だけは混乱と分断の中で何の備えもないのだ。彼は働き、投票し、たいていは祈るが、いつも金を払う。 ──そう、何よりも金を払うのだ。そして賞賛されることはない。
忘れられた男は役職を望んでいない。彼の名前が新聞に載ることはない。彼は生産し続ける。彼は酒場で政治の話をすることはない。その結果、彼は忘れ去られる。彼は平凡な人間である。強力な友人もなく、政治的な影響力もなく、人生のチャンスを得るには、ただそれに値すること以外に方法を知らない、静かで控えめな人物である。
彼はあらゆる尊敬と配慮に値するにもかかわらず、またしても彼は忘れられ、騒々しく押しつけがましい無能な者たちが優先されるのである。その場にふさわしくない人間に場所を与えることは、その場にふさわしい誰かを排除することになるということを、私たちは覚えておかなければならない。
忘れられた男は決して厄介者(浮浪者や 無法者のような)ではなく、悪名高い存在(犯罪者のような)でもなく、同情を誘う対象(貧乏人や弱者のような)でもなく、社会の負担(困窮者や 野宿者のような)でもなく、社会福祉の対象となるような存在でもない。
また彼は、援助や保護の対象(虐待された動物のような)でもなく、職業訓練の対象(低学歴者や無学者のような)でもなく、感傷ぶった経済学者や政治家がお情けをかけたくなるかわいそうな人(非効率な労働者や失業者のような)でもない。それゆえ、彼は忘れ去られる。
忘れられた男の価値
忘れられた男は、社会の生命であり実体である。彼らは最初に、そして常に、思い出されるべき存在である。彼らは、感傷主義者、慈善家、改革者、熱狂者、そして社会学、政治経済学、政治学のあらゆる思想家に、常に忘れ去られている。しかし、あらゆる社会的テーマについて厳格に科学的思考をめぐらせれば、忘れられた男の価値がわかるはずだ。
これまで博愛主義者や感傷主義者は長い間にわたって、意地悪な人、怠け者、犯罪者、泣き叫ぶ人、媚びへつらう人、何の役にも立たない人に、まるで彼らだけが我々の注目に値するかのように注意を向け続けてきた。しかし私たちはむしろ、清廉で、正直で、勤勉で、自立した、自助している人々について、考え、気にかけるべきだ。
同情と敬意
忘れ去られた男は、あらゆる福祉の費用と労力、公共の利益、怠惰な者の支援、経済的不正の損失、すべての雇用において、重荷を負っている。彼のことを思い出し、彼の重荷を取り除こう。同情や共感を、無能者にではなく彼に向けよう。それは彼にとっての正義であり、社会はそれによって大きな利益を得る。
忘れられた男の重荷を軽くすれば、社会は改善する。彼らは私たちの生産力だが、私たちはそれを無駄にしている。彼の力を無駄にするのをやめれば、社会全体に清廉で潔白な利益をもたらすだろう。
忘れられた男が本当に望んでいるのは真の自由である。忘れられた男たちは、豊かな生活を送るほどの資産は持たないかもしれないが、誰にも頼らずに生きていくために彼らができることをしている。彼らが望むのはただ、友情と敬意をもって放っておいてもらうことだけだ。
父権主義と自由主義
私たちの制度の中には、従属と保護という中世の古い父権主義的な概念と、独立と自由という現代の自由主義的な概念とが混在している。支配的な地位にある人々は、自らの権利を父権主義で測って正当化する一方で、自らの義務を自由主義で測って軽減してしまう。その結果、懸命に働いている忘れられた男は、両方の代償を払わなければならなくなる。
- 忘れられた男の権利は自由主義によって測られる。つまり、彼は自分が勝ち取ったもの以上は持つことができない。
- 忘れられた男の義務は父権主義によって測られる。つまり、彼は自分に課されたすべてのことを果たしきらなければならない。
すべての父権関係には親と子の二者が存在する。父権関係における人々の立場は、親の立場と子供の立場しかない。やるべき仕事や支払うべき経費を支払わない人々、つまり無能者や犯罪者や詐欺師が子供の立場にあたる。親の立場にあたるのは、働いて支払う人、つまり忘れられた男である。
忘れられた男を解放する
「忘れられた男」が必要としているのは、私たちが自由をより明確に理解し、自由をより完全に実現することである。つまり、法の下の平等が達成され、あらゆる取引から情緒が排除され、誰もが自らの幸福のために自らの力を独占的に行使できるようにすることだ。
私たちが自由のために勝ち取る一歩一歩が「忘れられた男」を重荷から解放し、彼の力を彼自身と国家のために使えるようにしていく。そして、真の自由が実現したときに「忘れ去られた男」が忘れ去られることはなくなるのだ。
抄訳終わり
解説
サムナーは権力争いを「人生の重荷を自分の肩から他人の肩に移す権力をめぐる争い」と定義した。現代の権力者は弱者である。彼らは自分で重荷を背負うことなく、他人に背負わせる権力を持っている。その権力をめぐる争いは「我こそは弱者である。注目し、同情し、保護し、優遇し、与えよ」という弱者ポジションの奪い合いとなっている。
人間の不変の本性を「愚かさ、利己主義、妬み、悪意、欲望、怨嗟である」と看破したサムナーは正しい。現代の権力争いにおいて、自由や独立を捨てて同情と保護と優遇を求める人々の姿は、まさにサムナーが示した人間の本性が剥き出しになった姿だ。そして、恥ずかしげもなく泣き叫んで同情を誘う人々は権力争いに勝利し続けている。
弱者ポジションをめぐるこの権力争いでは、闘う前から敗れることが確定している者たちがいる。男性たちだ。彼らは生まれながらの強者とされ、生産し、奪われ、誰からも顧みられることなく、使い捨てられ、いまも忘れられたままだ。サムナーが論じた「忘れられた男」の問題は現在も続いていて、さらに深刻度を増しているのだ。